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佐々木氏の「グーグル」読後に考えた未来の風景

 以前、梅田氏の「ウェブ進化論」という書籍を読み、簡単な感想のエントリを書いたことがある。今回の佐々木氏の「グーグル Google 既存のビジネスを破壊する」も近い内容を扱ったものだ。R30氏がブログで書評を書いているのでそちらも参照されたい。

 書籍そのものの内容としては極めて妥当なものであり、むしろこれを読んだときの各人の感想が興味深いものとなる、と様々な人が述べている。私も似たような見解だ。何かを語る際の基盤として優れている感がある。

 この書籍は、梅田氏の「ウェブ進化論」と比較すると確かに一般向きかもしれない。ビジネスの具体例がより実際的に、ローカルな個別企業の名も挙げる形で示されており、古典的なビジネス書に近い感もある。梅田氏の書籍と比較して対照的と言う人もいる。私などはむしろ「結局のところ同じことを語っている」側面のほうがより重要だと考えるのだが、そうでない人も多いのだろう。

 むしろこれではっきりしたのは、梅田氏の著作では具体例に関してはむしろ禁欲的な側面を持っており、必要最小限の事例しか意図的に挙げていないのではないかと言うことだ。これは抽象的な内容を語るときは特に重要だ。具体例を挙げないのが思想を語る上で必須であることもある。ビジネスでも特定範囲でしか仕事が出来ない人に限って具体例や実績に拘るのはよくある話である。もちろん、この佐々木氏の書籍を批判しているわけではない。役割はそれぞれだからである。ただ「同じ事を語っても肌合いは違う」のであり、それが本質的に違うように思う人は予想以上にいるかもしれないと思っただけだ。

 この佐々木氏のGoogle論は、データベースが中核にあるという事をはっきり述べている点で啓蒙的だ。それがあらゆるジャンルに適用されていくという未来図もほぼ正確であろう。では我々はどのように対処すべきか?またいつものことだが、政治系ブログということで社会的意味合いで考えてみよう。

 ある特定の企業が時代の経済環境にうまく適合し、特定産業で独占かそれに近いシェアを占めて大きな利潤を得るということはしばしばある。それに通常対応するのは独禁法であるが、より実際的な解として、ある種の社会的役割を背負わせるという場合がある。日本国内で考えると、NTT法であったり、電力会社や鉄道会社に関する対応であったりする。いずれも競争は市場で可能でありながらも、現実問題として参入障壁が極端に高いのが特徴である。Googleのような会社も、大局的に見ればそのような企業の一つとして今後処理されるのではないだろうか。中国政府とのやり取りがいい例だが、結局のところ主権国家の法制度は絶対の強制力であり続けるのだ。

 では、仮にそういう未来図があるとして、設定したほうがいいかもしれない義務とはどのようなものであろうか?ユーザーは皆自由意思で提供するものとする。それは結局のところ二つに集約されるのではないだろうか。データ利用効率を最良にすることが一つ、データの削除の自由も含めた管理の一元化により、ユーザーに統一的な利便性を提供することがもう一つだろう。

 前者に関しては、この地主制度2.0という面白い言い草から連想した。小作人とは言い得て妙で、ある側面の真実も突いている。しかしながら我々は別の側面も考えなければならない。戦後の日本のごとく農地をみじん切りにするような農政は失敗することだ。結局全体効率を上げなければ話にならない。そのため、二次利用者の使用コストを押さえ込む施策は今から考慮しておいていいかもしれない。あからさまに言えば消費者金融の貸出金利の上限みたいなものだ(笑)日本の現行法でも、従業員○○人以上の企業は云々と言う条文は山のようにある。これは雇用という社会的に重要な役割を提供している責任から来るものであるが、この種のデータベースの二次提供は仮想的な雇用提供と表現できなくも無い。そのため従業員数以外にデータベースの規模などで社会的責任を段階的に設定すると言う未来図は可能性があるかもしれない。

 後者に関しては、よりユーザーサイドからの視点だ。現在、インターネット上で様々なサービスを受け、ショップを利用している人は個人情報をばらまいていると言える。これはリスク拡大という側面もある。個人情報を含めたデータベースの構築企業が両手で数えられる程度に集約されれば二次利用する会社に完全開示しない形でビジネス上の処理は可能になるかもしれない。また、個人が自分に関して作られているデータベースの内容は自分自身で参照可能であるというのは、今後新たな種類の人権であるとされる政治思想が広まるかもしれない。そうなると、まとめ上げられたデータベースを、場合によっては有償処理という可能性まで含めて、項目ごとの削除等も含めた権利を設定する必要性はあるかもしれない。

 上記のような可能性は、この書籍のP.232-234などと読み合わせると示唆的だ。ここでは監視社会のモデルとして、ビッグブラザー、パノプティコン、アセンブラージュを上げており、ビッグブラザーからアセンブラージュへ、主体としては官から民への変化が趨勢だとされている。その必然的な帰趨として、少なくとも経済的に発展した民主主義国においては、民主的に選ばれた行政府はむしろ民間の大企業の役割を監視する存在として社会的に認知される事になるかもしれない。社会がそのような段階になっていれば、いわゆる住基ネットのようなものは民間委託されているであろうから当然ともいえる。(セキュリティなどに関して政府機関は常に一流企業より劣っていることもその流れに拍車をかける)ただそのような社会の成立にはやや条件があり、米英独のような地方分権が強力な社会で監視機構が地方政府と中央政府、NGOなどで相互に働いてなければならない。日仏あたりは政府が信用を得るのに上記のような国よりは時間がかかるかもしれないし、結果的に効率ある社会という観点では少し遅れるのかもしれない。日本国内で言えば、裁判員制度などとのセットは考えられるだろう。無作為抽出された市民がそのタイミングで自分のプライバシー情報の管理状況をチェックするというようなアプローチだ。それに企業の信用度を商品化して、先物市場のような形で取引するという手も使えるかもしれない。このような未来図は今ではSF的でしかないが部分的には現出するかもしれない。

 ところで、この本で疑問に思ったことが一つある。それは、なぜ破壊するのかをわざわざ問うている事である。それは、問う必要があるのだろうか?彼らは破壊できるから破壊するというだけだろう。というより、自分たちが歩む事自体がたまたま破壊になっていると考えているだけではないか。本当に社会に必要なものであるなら破壊しても自然と再生するだろう、そうで無ければ意に介する必要なし、とその程度ではないか。先駆者とはそうしたものなのである。

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