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梅田氏の「ウェブ進化論」を読んで色々と考えた

 珍しく休暇を取って旅行に行っていた。暇なホテルでの夜に最近話題の梅田氏の著作「ウェブ進化論」を読んだ。私は元々ネットにどっぷりという人間ではないのでこの種の一般人向けの本としての丁寧な著作は有難い。久々の更新の割にはただ暇潰しエントリになってしまうがつらつらと思ったことを書いてみたい。そういうわけで書評と言うわけでもない。主に読んだ人に対するメッセージだと思ってもらいたい。

 この梅田氏の著作については、インターネットバブル崩壊後の第二世代のネット技術の進化の要点を鋭く押さえているという点をまず評価しなければならない。そして語られて無い点が重要だという言い方で、R30氏が2回のエントリ()においてある本質的な部分を的確に喝破している。しかしながら、私の抱いた最初の見解としては、むしろ古典的アプローチの先鋭化がネットによってなされているというものであった。純技術的に言えば、このIT革命の第二幕は、大規模で効率的なデータベースの進化というものが唯一の源泉と言えなくも無い。知の結集とその取捨選択による進化もそれを基盤としている。その意味でGoogleが代表的な企業であることにも異論は無い。そしてGoogleの影響から逃げる方法を考えるという知的作業そのものが、Google的な分析の対象になる事であると思っておくべきであろう。

 そして、多くの人がこれをビジネス的な面から考えているが、先鋭化の結果として、人間の考え方が変化していくという事がより本質的な部分であろう。例えば経済的な格差意識を例に取ると、この本で引用されている羽生氏の「高速道路とその先の大渋滞」という鋭い指摘には考えさせられる。(この人は以前「打ち歩詰めのルールが無ければ将棋は先手必勝ではないか」と発言して物議を醸していた。それが真実かどうかはともかく、何かと恐ろしく的確に物事の本質を見抜いているように思われる)ここではITの恩恵としての高速道路に乗ることによって全く個人的な努力でかなりの程度力量を高める事が可能であるとされているが、しかし同様の人が大勢いることによって、限られた勝者となるためにはそこから先の道が至難であることも指摘されている。このような現象が、多かれ少なかれ社会の全領域で発生するのであろう。その場合、高速道路に乗ったはいいがその先で成功できない人々の意識は複雑だ。自分も成功しようとして高速道路に乗ったのだから、高速道路の先の数少ない成功者を非難は出来ない。むしろ高速道路に乗ろうともしない人に視線は向かう。自分の相当程度の努力がさほど報われないのに、そのような人間が自分と大差ないそこそこの評価で無難に過ごしていることに対してどう思うだろうか。日本においては、このような若いエリートの不満の結果が反映したのが昨年の衆院選の結果かもしれない。もちろん世代の問題が直接的であるが、将来的にはニート等に代替されるであろう。こういう真面目で優秀だがあまり恵まれない層は2割くらいだろうか。これは結果として日本の知識人の経済的弱者に対する意識をやや英国的な陰険で冷淡なものにするかもしれない。

 またデータ解析と取捨選択の技術は、より人間の根源的な欲求に対して明確な示唆を与える時に社会に与える衝撃は強くなる。例えば人間の寿命に関してはどうだろうか。今でも病院の良し悪しのデータベースは作られつつある。だがもう少し違った角度からの視線、例えば職業別の平均余命とかが見えてきたらどうであろう。特定職業の人気が急落するかもしれない。また趣味がテーマなら?住環境なら?どれ一つ取っても大変化が発生する。
 また結婚などをテーマにしたらどうだろう。amazonでの購買、ネットでの検索やページビューなどの個人の嗜好を表す情報を、人の手の加わらない自律システムに提供すれば、その見返りにある程度の人間関係の誘導を促されるというのはありかもしれない。今でも容姿さえお互いの容認範囲なら(苦笑)ネットでの親しい友人関係から初めてオフラインで会った時にブレイクするというのは聞く話だが。容姿すらも遺伝情報の提供があればいけるかもしれない。また、ちょっと言いにくいが年齢というのも評価要素なので、人間が自分を高く売れる時期をある特定年齢と判断できるかもしれない。結果、多くの人はある年齢で結婚するようになるとか、そんな可能性はどうであろうか。
 教育をテーマにしたらどうだろうか。今の我々は生まれたときにIT技術の恩恵を受けていたわけではない。高等教育のでの恩恵は見えやすい。しかし自分の子供を出生時から効率的に教育するプロセスが、現在の特定の学校に行かせる程度のものから、より生活全般に渡る細かいプロセスとなるかもしれない。

 こういう話は現時点では全く夢物語かもしれない。しかしながら、いずれも方向性として可能性が無いものではない。そして社会における人間の倫理観や意識はゆっくりとしか変化しない。上記のようなことは、いずれも長期的には当たり前の変化であっても、一つ世に出るごとに巨大な黒船が襲来したかのような受け止められ方をされるのであろう。Google Earthのようなパターンが大規模に繰り返されると思ってよい。つまり、全体としてはゆっくりとしか変わらないのに、ある時ある分野でルールと人間の意識が激変する。そのことに今後の社会変化の本質は集約されるのであろう。

 そのような社会の行く末はどうなるのだろうか。政治系のブログと言うことで、政治家が認識し、語っておかねばならない、覚悟を決めておかねばならないと思われることをいくつか挙げてみよう。

・格差の問題
 最近格差の拡大がどうこうと悶着があるが、そもそも個人の能力差が若い世代になればなるほど広がっているのだから、ミクロには色々不公平があってもマクロ的にそうなっているのは当たり前だと言うことを政治家も率直に語らなければいけない。それを原点にしないと話が進展しない。

・シンクタンクの活発化
 世の中にはタダで知的リソースを提供したり、ボランティアで政治活動をする人がいる。そういうベンチャー企業的な政治風土を持つのは現在では米国程度で、階級社会の欧州もアカデミズムの沈滞は色々と問題である。現在議員立法には議員個人がかなりの労力を必要としているが、立法のための主要な要件を整備・公開し、各議員が在野の知的リソースを利用しやすくするべきであろう。また場合によっては政策秘書のやや軽い地位を創設してもいいかも知れない。同時に立法は大統領制のごとく立法府所属の人間にのみ権利ありと厳格化してもいいかもしれない。(内閣構成者も党員としてしか立法できない、など)官僚を排除するためには知的には優秀な彼ら以上の知的リソースが必要であるというだけの話だ。ちゃんと使えていれば今回の民主党のメール問題のような事は避けられる。

・日本語という問題
 この本では言語の壁を破る技術を模索中であることも記されているが、その技術進展の速度とタイミング次第で異なる未来が予想される。まずなかなか壁が破れない場合、英語圏に比べて極端に知的リソース上の不利を甘受することになり、経済の停滞があるかもしれない。しかし社会不安の進行はむしろゆっくりしているかもしれない。壁が破れた場合はやや激烈で、日本語に堪能である事がほぼ唯一の自分の知的資源であるような人がかなりの苦境に立つであろう。しかし多くの企業にとてつもない成功への道が開かれる。そしてどちらになるかは政治家の行動では変えられないことを認識しておき、いずれの場合にも備えるべきだろう。

・世界情勢への影響
 個人としては全世界の人間にチャンスがある。企業と言う枠で見ても同様だが、しかし主権国家の枠組みは容易なことでは崩壊しない。そして企業と言うならどこかの主権国家にどうしてもその基盤は影響される。例えば先のamazonを例に取ると、再販制度が無いのでベストセラーの本には価格競争があり、そうでない本は高く売れるので利益がそこそこ上がるというのは典型的な例だ。結局法制度の影響は受ける。そして総合的に見れば、言論の自由が無いかタブーが多い国は沈滞することはほぼ確実、主権国家としては米国一人勝ち。EUはまぁ頑張る。日本は上記。後の国は法制度と治安がほぼ全てを決めるだろう。人間の能力をうまく使えれば成功する。

・ルール決定への意識
 このような巨大な社会変化に対し、方向性を多少なりとも影響付けられるのは強制力のある法律以外に無いだろう。しかもインターネットの性質上、全世界的に考えなければならない。国際政治での条約作成の提案能力を高める事も重要だが、国内法とのマッチングの速度を速めることが大切だ。例えば現在ハーグ条約で、内容によっては日本の裁判所の管轄権は外国に及ぶのだが、それを生かすような法整備はまるでされていない。逆に義務は履行せねばならないので一部国民のフラストレーションがあるが、これは日本の認識・努力不足である。

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西サハラの主権はどこにあるか

 タイトルに示す西サハラの件、どこかの機会でエントリしておこうと思っていた。つい先日ル・モンド・ディプロマティークの記事(参照)を見かけたのでこれを機会に立てておこうと思う。広大な地が世界地図で空白となっているが、人口は約30万人程度のこの地域、ある意味で世界史と現代の縮図だ。

 上記の記事はフランスのある種の知識人を代表する意見として的確だ。多くの事実関係を整理して把握するのにも役立つ。ただ恐らく、これを読んでも大半の日本人はピンと来ないはずだ。まずスペインの旧植民地支配からの経緯がある。
 今でもセウタやメリリャなど、モロッコに飛び地としてスペイン領がある事を知っている日本人はいるかと思う。ただスペインは沿岸部にそのようなものを多数抱えていた。中にはセウタやメリリャの維持を条件に放棄したものもある。そしてモロッコ自体はフランスの植民地であったわけだが、この地はアフリカの中でも旧列強に振り回された見本のような国だ。(それでも西洋文明の恩恵も最大であったろう。と言うと現地の人は反発するに決まっているのだが)様々な事件の舞台となり、特にタンジールの地などは国際管理だったこともある。ここで発生したタンジール事件などはWikipediaにも記載があるのだが(参照2)一歩間違えればサラエボのそれではなくこれが第一次世界大戦の原因になったかもしれず、日本では知名度が低いが重要な歴史的事実として踏まえておかなければいけないだろう。なお年代を見ると分かるとは思うが、歴史を考えるに当たっては、日露戦争などは必ずこの付近とセットで理解しないととんだ視野狭窄となる。あれは英仏の複雑な動きやドイツの二枚舌外交の所産でもある。当時の日本人は名政治家に恵まれていたのは、こういう事情を理解して振舞っていたと言うことに尽きる。

 モロッコに話を戻す。沿岸の飛び地だけでなく、モロッコの南部地域は元々スペインの勢力範囲で、それを少し早い段階で放棄していた事が重要な歴史的経緯となっている。そしてその南の西サハラの放棄はすんなりとしたものではなかった。この付近東ティモールその他とも事情がかぶるが、今日モロッコはそのような経緯を正当性の根拠としている。問題はそれを国際的に認めさせるプロセスに失敗したということと、現地住民の反感を買いすぎたことだ。

 この件、英語版のWikipediaで西サハラの項目がうまくまとまっている。これをMINURSOの項目も合わせて見ると良く分かるのだが、力学的にはむしろ最近動いてきた件である。そして西サハラの人権の項目などを見ると生々しい汚らしさの空気がやや分かるかもしれない。この項目が議論中になっているのがさらにその感を増す。つまりここでも人権問題がある種のリトマス試験紙となっている。独立を目指す勢力であるポリサリオ戦線側とモロッコ双方に問題があるのだが、ただポリサリオ側をテロ組織認定して欲しいと言うモロッコの要請は却下されている。要は欧米がモロッコに強い嫌悪感を抱いていると言うことだ。そして西サハラ領有の主張は無理があるでしょと思っているわけであって、これは現時点となっては挽回がかなり難しそうだ。そして西サハラ地域はスペインの支配のせいもあり、住民の意識としてはやや近代的なようでもある。贔屓の原因でもあるのだろう。

 さらにこの地域で、沖合いに石油や天然ガスの資源が存在する可能性があることが問題を今日的なものにしている。人口30万前後ならその地域だけは圧倒的に豊かになれる可能性があり、独立したくもなるだろう。まぁ、イラクと違ってこれこそ石油も主要な原因だ。これは事態を動かすテコにはなるかもしれない。

 要は、モロッコは恐らく失敗したのだ。成功のための方策はいかなるものであったか?恐らくはスペインが手を引いた後、現地の住民の主権を極力尊重する穏健な態度を示しつつ、アメリカの容認、できれば支援を取り付けることだったろう。今となっては累積した失敗を取り返せないように思われる。モロッコで原理主義的な勢力が急速に勢力を伸ばしているが、そういう政治的な閉塞感も背景になっているのだろう。ただそうであるにもかかわらず、旧植民地の問題を奇妙に引きずることにより、アフリカの大半の地域から承認を得ているこの地域の独立は欧米の大半から認められていない。様々な理由がある。ここで最初に挙げたル・モンドの論説の最後の部分を引く。「紛争終結となれば必然的に、どちらか一方が正しく、もう一方は正しくなかったということになる」確かにそうだ。だが米国の多数派の考え方は違うしスペインも意識としては複雑だろう。「主権を巡る争い」はいつも解決が困難である。

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核拡散防止のための様々な模索

 核拡散を防ぐための模索は様々な形で継続しているが、その一環として使用済み核燃料の国際協力の件が進んでいる。これはここ最近加速してきたもので、今月6日時点で主要な原子力大国との国際協力を進めるという米エネルギー省からの提案がなされている。(参照)

 このニュースに次いで、米エネルギー副長官が日本の核燃料サイクルを持ち上げる発言がなされている。(参照2)このこと自体は日本の経済力や技術を考えれば何と言うことも無いが、タイミングとしてはちょうどfinalventさんが日記で触れていたインドの件などとセットで考えるべきだと思う。まぁ、いきなり名指しされても私に振られても困るとしか言いようが無いが(苦笑)

 イランとインドが良好な関係を維持しているというのは日本の立場とやや類似している。ただインドは原子力関係でかくのごときプレッシャーを受けている。この記事はインドを牽制して、イランへの圧力とするのが背景でもあるが、同様に中国やパキスタンにおける核技術の透明化の進展を狙っているというのは上記のロイターの記述でもはっきり書かれているし当然推察されることだ。

 ただこの件、もう少し広い視野で解釈してもいいと思う。歴史的に米国は同盟国や友好国に核武装を断念してもらうために安全保障上の関与を提供し、どちらかというと敵対的な国に関しては、それは比較的大国で国際秩序の枠組みの現実もあることから容認路線だった。だからこそイランの核開発の問題はむしろ新しい種類の問題である、というような内容は以前のエントリでも触れた。今後世界的に原子力技術の発展は継続するので、この種の対処はますます必要となる。とすれば、敵対的な国を枠組に取り入れることはそもそも難しいことから、順序として、まずは中立的で米国及びその同盟国から一線を引きたがっている国を参加させるというのは自然な話であろう。インドに関しては戦略的岐路にある国の一つとして現在のブッシュ政権は特別な関与を意図してはいるが、手法が違ったとしても国際的な枠組に取り入れていくべきという努力の方向性はいかなる政権でも同じであろう。

 日本はとなると、この種の国に政治的妥協の大義名分を付与する存在として振舞うしかないと思われる。それぞれの国が国内で閉じている部分をこじ開けて、細部は他国に公開しないが日本(と裏で米国などの主要な原子力大国)は知っており、正当性に根拠を担保するというのはある話かもしれない。世界全体に透明性を持って相対する事を要求するのは難しいが、一握りの国に公開するとなれば、中間的現実解として想定されてもいいかもしれない。その種の外交交渉は既に始まっている可能性もあるが。中国に関してはフランスが保証するのだろうか。

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外国政府によるインターネット検閲に関する米国内の反応

 国内的な要因がないと外交的リアクションも出てこないというのは米国に限った話では無いし珍しくも無い。だが、この件はいかにもその典型であるように思われる。米国務省は外国政府の自国内のインターネット検閲に対しこれを緩和するための努力として委員会を設置したことを発表した。これは米国企業の中国内での活動が米国内で問題になっているのが主な背景である。

 国務省の発表はこのような内容だ。(参照)理念的なものが先行している感があるが、より国内的な贖罪の要素が強いようにも見受けられる。米国を代表する会社が専制政治の手助けをしているという批判は日本人の考えている以上に強い。具体的に言うとGoogle,Yahoo,Microsoft,Cisco Systemsの4社が矢面に立たされており、ちょうど今頃議会に呼び出されていると思うが、米国では針のむしろ状態らしい。

 普段から保守的な論調で、国内的なカラーが強いと思われるChicago Tribuneのこのコラムは多少雰囲気を伝えているかもしれない。(参照2,要登録)特にYahooの提供した情報が投獄に結びついた件はもう大騒ぎのようだ。この手の問題の関連リンクはあちこちで作られているだろうから省略する。これが中国だけの件ではなく、イランがBBCのペルシャ語サイトへのアクセスを禁止した件も相乗効果となって、政治的争点に浮上しているという構図であろうか。チェイニーの誤射の件の批判もかわしたいだろうし、政府は何かをしなければいけなかっただろう。政府は中国政府に宥和的だが議会は厳しいというのは昔からだが、それでも物事に潮目というのはあると思う。この件、後から振り返ると大きな出来事だったと振り返られるのかもしれない。

 今回、国防戦略の見直しの件も重なったが、それにしても中国の「米国は対中戦略がバラバラ」というこの発言はいかにも奇妙だ。中国の首脳は決して知能の低い人達では無いのだが、にもかかわらず国内的な発想で外国を見てしまう性癖からは逃れられないのかもしれない。もちろん中国に限った話ではない。民主主義国は国内意見がバラバラなのは当たり前で、マジョリティの形成過程こそが要であるというだけの話なのだが、この当然の事実が伝わる国は余りにも少ないようだ。

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皇室典範改正問題と政界再編

 皇室典範改正問題に関して、小泉首相は有識者会議の結果をベースとした強固な改正派として振舞っていたようだ。どのような思惑かは分からないが、そういうのが無かったとしても小泉首相の政治スタンスから大きく離れたものでは無いので、いつも通り強引なだけかと思っていた。とはいうものの、たまには遊びで小泉首相の思惑を考えてみるのもいいかもしれない。

 昨年の衆院選は様々な意味で例外的な選挙だった。郵政民営化に関して問うたものではあるが、結果としてある程度議員の政治性向を分ける結果となった。ただ思想的なものというより、損得勘定といった力学が先行した感はある。日本でなかなか政権交代が常態化する状況にならないのは、欧米のように政治思想や哲学をベースとする精神的な基盤が少ないからだろう。むしろ実益主義的な行為が先行する。他にも理由は色々ある。立法府の弱体、行政府の過大な優越が大きな原因だろう。とはいっても立法府が活発な活動をすればそこに権威は発生する。

 ここで仮に、小泉首相がもう一段の政界再編を意図しているとしたらどうだろうか。昨年民主党に大連立を持ちかけたところからも、その可能性はありそうだ。それは議員各人が政治的信念によって政党に属さねばならない。利害団体では実効的な活動は出来ないものだ。特に野党の場合はそうと言える。では議員のそのような政治信念をあぶりだす政治的課題は何だろうか?郵政民営化程度では力不足なようだ。

 私は、それこそが皇室典範改正問題ではないかという気がしている。情けないことに、多少の事では自らの政治的信念を曲げて立場の違う政党に属するのが日本の議員だ。皇室を課題にすれば、例えば強固な男系制度擁護派が保守政党で集まるという事も可能だし、中道リベラルが厚い形で(自民党か民主党どちらかは分からない)存在するだろう。欧米のそれとは異なるが、それでもかなりの程度政治的ポジションで政党を分ける結果が望めるかもしれない。逆にこれ以外のテーマで「使えるネタ」がまるで無いというのが日本の現実ではないか。

 現実には、紀子妃殿下の懐妊という慶事が伝えられ、改正問題は先送りとなった。間が悪いこともあるし、そのようなファクターが入ってしまったという事それ自体が、上記のような政界再編に異なる要素を持ち込む結果となるからでは無いだろうか。

 いずれにせよタダの妄想でしかないが、ただ今少し日本人が功利主義的態度を自己抑制しないと、政党政治はこのような強引な方法でしか再編できないという事は事実であろうかと思う。

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続・欧州とイスラム世界のムハンマド風刺画騒動

 前回も追記を加えたのだが、この件は自分の認識と世間のギャップが多少大きいようだ。蛇足もいいところではあるのだが、もう少しこの件に関するつぶやきを記してみようと思う。ただ実態と合っているかどうかとなると、地域によっても違うし、元々大雑把な意見なのでどうというものでもないが。

 この件、欧州における移民が背景というのは全くそうであるのだが、それは攻撃的な構図として見るべきではないだろう。むしろ旧来からの宗教その他に対するタブーの増加には、成熟した社会として柔軟に対応していたと。しかし当然摩擦はあるわけで、今回のような風刺画はいわば社会のガス抜きのような行動の現われだろう。そのような所までに注文をつけるのかという事で、むしろ欧州諸国は被害者だという意識があるのではないか。
 また、前回のエントリのコメントでも軽く触れたが、例えばテロ組織のように、欧米などのキリスト教世界との対立が継続すること自体にメリットを感じる組織がイスラム世界に多いことには注意しなくてはならない。今回の件が該当するかどうかはともかく、本質的にこの種の摩擦は一定確率で発生し、それと共存することを覚悟しなければいけない、というのは言えるだろう。

 ここで社会におけるタブーという点で、英国での法案の件が極東ブログさんの方で軽く触れられている。英国のサイトを見たところ、これは昨年の10/25段階で修正が必要となり上院で否決されているようだ。このページの"Racial and Religious Hatred Bill, Committee,"(ページに2箇所)に続くリンクで確認出来る。2001年にも似たようなものが否決されている。しかし日本人や米国人から見ると英国上院ってのは鼻につく・・・いやそれは余談だが。いずれにせよそういう動きもあるという事ではあるが、ただこの件に限れば、英国は別扱いでいいのではないか。

 近代に至るまで宗教で散々殺し合いをした欧州諸国はこの種のタブーが面倒なことは良く分かっていると思う。あるいはキリスト教のカルトの延長としてのイスラム教、というと言い過ぎだろうか。ただいずれにせよ、近代的な国民国家を形成する中で、それぞれの国はそれなりの現実解を模索し、様々な試行錯誤を重ねた努力の結果としてそこそこ落ち着いた現在の社会がある。少し関連したエントリを以前に書いたので場合によっては参照してほしい。
 そういう歴史ゆえに欧州諸国は一線では譲れないのだが、その過程で英国は欧州の他の国に比べると(北アイルランドの件だけでなく)かなり異質なものを抱え込んだまま共存するという道を選んでいるようだ。米国もそれに近い面がある。だからこそ今回、英国や米国の政治レベルでの発言がやや融和的に見えるのは私としては得心が行く。妥協はアングロサクソンの伝統、と彼らは言うが、世間でのイメージと違ってそれは真実だろう。もちろん手法的なものであって、少なくとも今回「やっぱりイスラム駄目よ」という内心の認識は同じだろうが。

 そういう事を考えながら、日本の事も考える。イスラム地域に関して判官贔屓のごとき言動があるのは分からなくも無い。未だ相対的な弱者ではあるからだ。ただしかし、日本と社会の発展段階が近い欧州諸国の、今まで積み重ねてきた努力や何とか辿り着いた現在の社会の貴重さというものに思いを致さないのは何なのか、と思う。少なくとも同じ口で自国の歴史に理解を求めることは出来ないと思うのだが。

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欧州とイスラム世界のムハンマド風刺画騒動

 末尾に記述を追加しました。('06.2.4)

 デンマークに端を発するムハンマドの風刺画問題だが、欧州全域に飛び火する状況で蜂の巣をつついたような大騒ぎだ。またパレスチナ選挙やイランでもめている最中にタイミングの悪い事だ。とりあえずメモ代わりのエントリ程度。

 ちなみに発端となったのはこれらしい。概要はワシントンポストの記事がまとまっているので引用する。(参照)このコラムも参考になるだろう。(参照2)実のところ、欧州の反応はキリスト教やユダヤ教におけるタブーとも重なり、イスラム地域の世論に関しては理解しているし、一般論としては融和的なのだろう。同じくワシントンポストのこのコラムで示されていた内容はなかなか示唆的だ。(参照3)一部引用する。

The complication in the cartoon controversy, says Islam Online, "stems from the conviction held by many Muslims, that 'press freedom' of the Danish variety would not be tolerated?indeed, would be prosecuted to the fullest extent of the law?if Judaism were made the target of such slurs, in a Europe where legitimate, if exaggerated, fears of anti-Semitism have long acted as a sort of moral bludgeon, shaping legislation and molding public norms and taboos."

 私の印象としては、タブーに関する欧州一般の理解はかなり高かったと思う。そうであるから、いやむしろそうであるが故に暴力行為のような一線を越えた反応に関する反発は一層強くなったものと考える。これが日本であれば、聖なるものへの敬意という感覚はむしろ薄れているかもしれず、より純粋な反発がはっきり現れていたのかもしれない。そうでないのは運がいいだけとしか言いようが無い。日本でもかつて悪魔の詩の邦訳で殺害された筑波大教授の件があるが、現在日本で発生していたらどうだったろうか。インターネットの影響力も昔とはまるで違う。

('06.2.4追記)
 この問題に対する日本の他のブログを見たが、奇妙な認識がされている事も多いのに驚いた。挑発的であるとか、他文化を理解すべき、そのタブーを尊重すべきという論調も多いのだ。この件、そのような問題だろうか?当の欧州では、そのような事は多くの人が百も承知だろう。

 比喩が難しいが、日本人としては皇室に対する態度に重ねてそのような発言になっているのではないだろうか。公然と触れないことが社会としての約束事で、無意味に混乱を引き起こすことであると。だが欧州、いやもっと広く取った少なくともキリスト教圏の民主主義諸国「全体」でそのような日本人的自粛が可能なはずも無い。そして現在の自由な社会を維持する限り、ある一定確率でこの種の風刺画のごとき表現がメディアに現出することは絶対に避けられない。実際に今回は小国デンマークの一新聞が発端であるに過ぎない。それをゼロもしくはそれに近い状況にしようと試みるには、法規制以外の方法はない。欧州の多くのメディアがそれに危惧を抱くのは当然過ぎるほど当然だろう。
 少なくとも私は、そのような社会の未来図は闇でしかあり得ないと思うし、多くの民主主義国の国民もそうだろう。これはそれでも良いとする人たちとの対立であるという苦い現実を率直に認めなければならない。当面、摩擦の沈静化のための戦術的な対応が必要だとしても、本質的な解決のためのリアクションは取れない性質の問題だろう。

 どこか忘れたが、欧州の新聞で「ムハンマドよ、怒るな。ここでは我々は皆風刺される」というような発言をしているキリストの漫画が掲載されていた。イスラム圏の人々がそれを理解してくれると良いのだが。

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2006年米国大統領一般教書演説

 米国で年頭の恒例とされる、大統領の一般教書演説が行われた。内容は様々な所で公開されているが、今回ホワイトハウスが内容の補足まで含めてかなりの情報を挙げている。まずは全文のリンクを参照してほしいが、ここの上のほうにある各ページへのリンクは見ておくべきであろう。米国政治は日本以上に公式に発表された一次情報が重要であるが、これはその典型といえる。読めばいいだけの話で私が何を補足するものでもないが、軽く感想くらいは述べてみたい。

 一般教書の演説そのものに関しては国内の報道で要点が紹介されている。しかしどうにも適切と思えるものが無い。ここで重要なのは、演説内容そのものもそうであるが、それをとりまく英語表現の雰囲気とか、ある種の理想主義の体現の部分のように思われる。核心部分をとりまく建前の部分にかなり本質的な内容が入っているのである。日本などではしばしば左派勢力が美辞麗句と貶めるが、もちろん米国政治に関してはそうではない。そして今回の演説自体は、細部をかなり詰めてあるという印象がある。以前全文を紹介したイラク政策に関するものもそうであるが、あくまで直球で攻めて来ている印象が強い。米国ではこれは効くなと思う。例えばこの部分だ。またYetかと言う人もいるかもしれないが。

Our coalition has learned from our experience in Iraq. We've adjusted our military tactics and changed our approach to reconstruction. Along the way, we have benefitted from responsible criticism and counsel offered by members of Congress of both parties. In the coming year, I will continue to reach out and seek your good advice. Yet, there is a difference between responsible criticism that aims for success, and defeatism that refuses to acknowledge anything but failure. (Applause.) Hindsight alone is not wisdom, and second-guessing is not a strategy.

 これなどはアメリカ人向け殺し文句とでも言うべきか。

And tonight I ask for yours. Together, let us protect our country, support the men and women who defend us, and lead this world toward freedom.

 全体としては、イラクと対テロ戦で多くが占められているが、それ以外の部分もなかなか目を引く。アフリカに言及しているのは近年の関与の深さの反映であろう。また何だかんだと言いながらも米国経済が成長しているのは追い風だろう。雇用をこのような言い方で表現するとアピールするなと思う。我々は凹むが。

In the last two-and-a-half years, America has created 4.6 million new jobs -- more than Japan and the European Union combined.

 ベビーブーマーの引退、ヘルスケアなどの問題は日本同様だ。政治的には重い課題になっている。ヘルスケアは、日本はまだうまくやっているほうだろう。そしてエネルギー問題に広く言及したのはやはり目を引く、上で紹介したリンク先で、もう少し詳しく記述されている。(参照)以前紹介したForeign Affairsの論文(参照2)があるが、そのような炭素固定に関する技術などにもコストをかけるようだ。

 またいつもの事だが、米国は他国の成功を取り入れることに長けているなとつくづく思う。日本を例に取れば、かつて有色人種で唯一の工業化に成功したと誇ったが、国内的な法制度上の人種差別の抑止は、恐らく米国が世界で一番進んでいる。真珠湾の教訓からの空母運用は言うまでも無く、また経済面からの発言力強化を狙った80年代の日本の試みも米国の金融ビジネスの洗練化という形で返ってきた。今度はエネルギー・環境問題に関する日本の個々の技術の洗練が、大規模なシステムの統合された運用による効率化という形でやられそうな気がしなくもない。21世紀半ばには二酸化炭素排出量は激減するという予想が以前からあったと思うが、さてどこだったか。中国とインドの経済成長が鈍化すれば一息つけるかもしれない。

 演説の最後のほうには、このような表現がある。これは日本人があまり信じられない事なのかもしれない。だが、私はこのような表現は正しいと思うし、多くの人が正面から受け止めて良いものだと思っている。その後に記述される具体例は説得力がある。そして我々日本人も、昨年の9月11日のように実は何かを選んできたはずだ。その多くはアメリカのように大声で成されたものではなく、静かな選択であったろうけども。

We see great changes in science and commerce that will influence all our lives. Sometimes it can seem that history is turning in a wide arc, toward an unknown shore. Yet the destination of history is determined by human action, and every great movement of history comes to a point of choosing.

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