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世界の民主化は意味があるか

 ブッシュ政権に影響を与えたとされる、ナタン・シャランスキー氏著作の"The Case For Democracy"が邦訳されているので目を通してみた。邦題は「なぜ民主主義を世界に広げるのか」であるがこれはどうだろうか。ちなみに宮台氏の後書きもちょっとポイントを外している気がする。
 それはともかくこの本の内容である。読み終えた後の最初の感想としては、「これは世間で誤解を生みやすい書だな」である。実際そうなっている向きがあるのではないか。

 政治に限らず、人が他人や書物を評するときにはいくつかのパターンがある。大雑把に分類すると加点法か減点法というところだ。前者は瑕疵があっても本質的な部分で高い価値があれば高く評価するというやり方で、後者は細かい瑕疵などが無い完璧さをもって良しとするやり方だ。私的には知識人には後者が多いが、最優秀な人物と真面目で良心的な庶民には前者が多いという印象がある。アメリカは前者が多く、日本は後者が多いとも言えるだろうか。そしてこの書物は、恐らく加点法でしか評価し得ないものだ。結果、多くの知識人には懐疑の目で見られるのは致し方ない。しかし欧米保守派の最優秀な人々とかには評価されそうではあるし、世間的にも時間の経過に伴って意図が理解されるようになるのではないか。なお、政治などを語るときには、前者を基本とする基本的態度を崩さず、後者のアプローチは個別政策の議論に落とし込んだミクロな議論にとどめるべきという方法論を私は信じている。

 ライス国務長官が引用した「街の広場テスト」は比較的良く知られている。曰、人が集まる街の広場で自国の政府を批判し、それで自分の身に危険が及ぶかどうかだというのが基準だという。ちょっと聴くと大雑把で粗雑な議論だが、それがこの本の主張の要所だと考えると少し違う。いくつか書内から引用する。

「・・・自由世界と恐怖世界の間には、自由社会内部のさまざまなグループ間の相違よりはるかに大きな断絶があるという事実を我々が忘れてしまったら、我々は明確な道徳性を失ってしまう。我々の間にあってしかるべき相違、自由社会の中の灰色の濃さの違いが、誤って白と黒と認知されてしまう。そうなると、自由社会と恐怖社会を分かつ本当の白と黒との境界線、善と悪とを分かつ本当の境界線が識別できなくなるのである」(P.17)

「体制批判が禁じられているところでは、社会は必ず三つのグループに分かれる。一つのグループは、現行秩序に賛同し、それにコミットしている人々(真の信奉者)から成り、もう一つのグループは、処罰のリスクにもかかわらず現行秩序に公然と反逆することを辞さない人々(反体制者)で構成される。これら二つのグループのメンバーについては、自分の個人的な考えと公の場での発言の間にギャップはほとんどない。真の信奉者や反体制派とは異なり、第三のグループの人々は自分の考えていることを表に出さない。このグループは、現行イデオロギーをもう信じてはいないが、体制批判に伴うリスクをも恐れている人々から成る。それが『二重思考者』である。」(P.64)

 様々な政治体制の中で、この種の二重思考者を生み出す政治体制だけが駄目で、それを他と区別し、この政治体制に宥和してはならないというのが核心的な主張だ。日本に例えると北朝鮮に宥和するような事が駄目だといっている。この種の政治体制では世論や政治家の行動が信頼できず危険をもたらすので、自由主義社会が通常行う信頼を構築していく外交が機能しないと説く。そして外敵を使って国内の統治を維持するとか、また書の後半ではパレスチナを例に取り、恣意的な教育が行われている例を挙げている。これは中国などを見ても専制政治には一般に観測される現象といって良いだろうか。

 ここで指摘したほうがいい事は、戦争というものは必ずしも民衆の感情によって発生するというわけでもないことだ。むしろ論理や力学で方程式の解のごとく出てくるものだ。例外は民主主義の定着と産業の勃興期に、世論や未熟なジャーナリズムが過大な影響力を持った場合だろうが、この記憶が今日の先進国に強すぎるかもしれない。実際は中東やアフリカの地域紛争のほうが世界的に見れば典型例だろう。

 後半では、イスラエルを例に取り、パレスチナ自治政府の問題の多くを指摘する。この部分には色々瑕疵も多く、一方的立場からの書と批判される原因にもなっている。しかしながら、以前のエントリに示した異なる政治体制間の紛争が永続しているという意味で(ここでは第一グループと第三グループ)世界的に見ても例外的な立場ではあり、現状のイスラエルは誤解されている面が多いだろう。イスラエルを消し去った地図で教育を行っている相手が紛争の当事者であること、神殿の丘に首相が訪れただけでそれがテロの口実になるという事実は同情に値する。対応手法の洗練度はもっと追求するにしても、倫理的な非の度合いは思われているよりずっと少ないだろう。これは欧州の反ユダヤ主義の陰険な反映という側面もあり、日本あたりがより客観的な事実ベースの報道をすれば良いのだろうが。対中国や北朝鮮でも個別事情は違うのに構造自体は類似しているのは指摘されるべきである。もっとも対中のために中東を利用するのかという批判をする人は出てくるだろうが。

 シャランスキー氏は良くも悪くもサハロフ氏の直系という印象がある。氏を批判するのであれば、その方法論にするべきであろう。本質的に自由主義社会がより良質で、自由化を進めることの長期的意義は認めつつ、費用や人命リスクといったコストには限りがあり、短期的な対応は至難な場合が多いことなどだ。そして客観的な価値基準を一律に適用することが現実の政治では困難で、他者からは恣意的に見えてしまうことも解消せねばならない。ただ、氏の知性を考えるとその種の批判など百も承知なのだろう。つまり、自由世界はもっと多くのコストを負担してくれという単純な、しかし切実さのあるメッセージなのだろう。

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Comments

>我々の間にあってしかるべき相違、自由社会の中の灰色の濃さの違いが、誤って白と黒と認知されてしまう。そうなると、自由社会と恐怖社会を分かつ本当の白と黒との境界線、善と悪とを分かつ本当の境界線が識別できなくなるのである.

私は、シャランスキーを読んでおりません.ただ、引用された部分を見た限りでは、これは少なくとも日本人(とりわけ知識人)には非常に理解しにくいと感じました.価値相対主義と本来それを成立せしめている根源的原理的なるものの両立というのは、判りにくい.誤解を与える言い方になるかもしれないが、ユダヤ系知識人のラヂカリズムというのは(あのアンナ.ハレントの思想にも言えるが)皮相的にしか受け入れらていないのではないでしょうか.

Posted by: M.N.生 | 2005.09.26 03:44 PM

失礼、ハンナ.アレントです.

Posted by: M.N.生 | 2005.09.26 03:47 PM

ユダヤ系となるとまさに典型なのですが、欧米の知識人の言には日本人がなかなか発想できない、聞いても直感的に認識できない事が多いですね。従来言われているように哲学的な面や宗教面だけではなく、単純に歴史体験がないと言うこともあるのではないでしょうか。
例えば、日本人は真に邪悪な政治というものは自国においてほとんど経験せずに現代を迎えたとか、そういう事も含めて。

Posted by: カワセミ | 2005.10.04 01:08 AM

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