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自民党・民主党の現在

 ・・・というタイトルにしたが、小泉首相を含む政界の人々について、日頃考えていることの雑記のようなものである。個人的な所感の寄せ集めのようなものだ。

 まず民主党の代表だが、一応立候補者が2名で代表選をする事になったのは歓迎したい。負ける人が分かりやすく負けるのが大事なのである。そしてどっちが負けてもしつこく再チャレンジするのを批判するべきでないと思う。そういう粘っこさも、最終的に政権を取って内閣総理大臣になる事を目指すのならば必要な資質の一つだからだ。この両名は個人の資質だけに絞れば民主党では一応最良のクラスなので特に文句も無い。個人的には別に推したい人もいるが、小選挙区で負けてたりするし・・・・

 自民党となると、今は明白に見えてはいないが、親欧米の合理的な新保守主義者が多く、やや国粋主義的とも言える古い保守勢力が減っているような印象がある。これは自民党をますます怜悧な強力さを持つ政党にするかもしれず、次の衆院選でも議席の減り方は少ないかもしれない。また減る事が分かっている以上、個々の議員も努力するだろう。民主党は相当覚悟を決めないと駄目だと思う。

 小泉首相個人だが、私は世間で思われているほどの伝統的な保守主義者ではないと思う。むしろ無政府主義的な色合いも少し持っている、自由主義者でかつ人権重視の、欧州で言う中道右派、考え方によっては中道左派かもしれないと感じている。貧富の差の容認傾向はあるが、ただ人権面には意外に敏感で、機会の権利や社会的正義については割と確固とした信念を持っているように思える。企業が従業員その他に対する対応で不法なものに関しては小泉政権になってやたら厳しくなった。公正取引委員会、労働基準監督所など軒並み活動が活発化している。
 その意味で、小泉首相の政治家としてのスタンスは、絶対的な距離としては安部氏や鳩山由紀夫氏、小沢氏あたりとは意外に遠く、菅氏あたりとは印象とは違って実は近いかもしれないと感じる。町村外相とは、少なくとも外交面での親和度は割と高いと思う。
 この人権重視の合理主義スタンスが分かりやすいのは外交面だが、これで一つだけ違和感があるのが靖国参拝である。他のありとあらゆる政治行動に関しては、日本で無く欧米の伝統で考えるとほぼ首尾一貫している。ただこれだけが違和感があって、天然ではなくかなり意識的に為されている印象が強い。
 最近、A級戦犯に関しての発言が、保守派の言論人から叩かれている。報道ではテレビ朝日での出演で次のように発言したと伝えられている。

田原総一朗 「この靖国の趣旨はどうですか?」

小泉首相
「私はそうは考えてません。私はあの戦争は避けなければならなかった戦争だと、」

田原総一朗
「良くない戦争ね。絶対しちゃいけなかった。」

小泉首相
「そうです。」 「いけなかった戦争です。その戦争で戦場に出ざるを得なかった方々たち、 本当に無念だったと思います。そういう方たちの気持ちをね、片時も忘れたことはありません。あのような戦争は絶対さしちゃいかん。」

田原総一朗
「そういうことは、A級戦犯は、A戦犯である。」

小泉首相
「これはもう戦犯として裁判を受けましたし、私は参拝しているのは、そういう特定の人じゃありません。こころならずも亡くなった方々に対して参拝している。」

 この一連の発言は、思想的には首尾一貫していて、使われている語句が非常に正確であると感じられる。むしろこちらの方が本来の小泉首相の考えに近いだろう。これは先に挙げた小泉首相が近いと思われる欧州の政治家の考え方とほぼ整合性があると思う。私の考えだが、こうではないかというのを少し補足したい。

 「避けなければならなかった戦争」というのは、当時の文明国の安全保障に対する理念として一応の基準とされていたケロッグ=ブリアン条約を前提としたものと思う。要は先制攻撃反対という事だ。イラク戦争ではそうではなかったが、フランスの説得も当時重視しており働きかけは手厚かった。小泉首相はこの種の法理的な側面を重視する傾向があり、無法かつ道義的ではないと考えたのではないか。そして「戦場に出ざるを得なかった人たち」というのも自由主義的史観からの批判ではないか。これは当時の米国における日系人収容の問題を考えると分かりやすいと思う。当時の米国は国家に対する忠誠を重んじていたが、20世紀初頭段階の一世とされる日系人は日本への忠誠を捨てていなかった。(これはパリ講和会議での日本の人種差別撤廃問題との関連があるが、ここでは論じない)しかし第二次世界大戦時点では割れており、日本に帰国する人もいれば米国に忠誠を誓う人もいた。それを日系人というだけで一律に(まさに米国が敵対していたファシズム国家のように個人の多様性を認めず)差別したという事に関する反省というのが構図だろう。だから小泉首相も、戦争に反対した数少ない言論人の封殺とか、多様性を認めなかった部分に関する批判としてA級戦犯の責任を問うていると解釈できるのではないか。最後の「戦犯として裁判を受けた」というのも、政治的決着として彼らを戦犯とするやり方が歴史で選択されて今日に繋がっている、というニュアンスだろう。

 だから、小泉首相としては靖国参拝自体へのこだわりは案外無いのではないか。恐らくいくつかの政治的目的を達するための手段だろう。例えば中国との係争点を、キナ臭くなりかねない国境紛争などから実害の無い部分にずらすとか、また国内的にも、民族主義的保守派の人々を実害の少ない形である程度満足させ、ガス抜きするとか、そんな所ではないか。

 これは日本の政治状況を考えると、様々な意味である種の現実解かもしれない。後継の首相が誰になるかは分からないが、ここまでマジョリティの支持を満遍なく確保できるかどうかは疑問だ。ただやらせてみないと分からないというのも、首相職の一つの側面ではある。

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